社会は僕らの手の中『うしろめたさの人類学』

うしろめたさの人類学

松村圭一郎『うしろめたさの人類学』

ミシマ社(2017年)

 

 著者の研究フィールドであるエチオピアに比べれば、日本は摩擦レスな世界である。誰かが生活に困っている?国がちゃんと保障すればいいじゃないか。そもそもちゃんと働く努力を本人はしたのか。困窮している人が隣人であっても、隣町に住んでる人でも、他県に住んでいる人でも、同じような意識で片付けてしまえうる。国家や経済という制度の中で、個人に籠り、他人は他人と突き放すことができる。

 エチオピアはそうではない。街を歩けば物乞いが声をかけてくる。精神を病んでいる人に絡まれる。隣人にコーヒーを振舞われる。ひとりでいてはいけないと食事や作業に誘われる。たくさんの人間関係にひっかかりながら歩まざるを得ない。

 普段の日本の感覚でエチオピアに行くと、もちろん面くらい、どうしたら良いか分からなくなる。なぜなら私たちは、経済の「交換」のモードでモノやカネをやり取りすることすっかり慣れてしまって、「贈与」のモードで接することに不慣れになってしまったからだ。感情を伴うやり取りは負荷も大きくて、目を背けたくなる。

 でも私たちはこの感情に目を向けるべきなのだ。書名にある通り、「うしろめたさ」がキーワードだ。困っている人に気づかないふりをする時に生まれるうしろめたさにちゃんと向き合うこと。それが、国家や経済からこぼれ落ちるスキマを埋め、社会を構築する。社会は制度だけでできるのではないのだと、私たちの手元に引き寄せることができると教えてくれる。

この複雑な世界『資本主義が嫌いな人のための経済学』

資本主義が嫌いな人のための経済学

ジョセフ・ヒース『資本主義が嫌いな人のための経済学』

出版社:NTT出版

翻訳者:栗原桃代

原著:FILTHY LUCRE: Economics for People Who Hate Capitalism (2008)

 

 資本主義はお好き?「欲望の資本主義」とか「人新世の資本主義」とか、資本主義への風当たりが強まっているような雰囲気を感じる。私も、カネは欲しいけどカネをめぐる競い合いはやりたくない、つまりカネは欲しいが楽したいというしょうもないスタンスなので、資本主義に穿った視線を投げかけるような話はどちらかというと好きである。

 そんな私のような人間のための経済学だというから読んでみた。ところがこの本は、私のような人間を甘やかしてはくれず、資本主義は嫌だというけど簡単に代替案を出せるほど世界は単純じゃないのよ、と殴りつけてくるようなものだった。

 あとがきにあるように、本書は「謬見」の手引きである。真なる前提から誤った結論へ導く主張である謬見は、まるで正しいように聞こえることが厄介だ。ことさら経済の分野は複雑な世界であるからこそ、謬見がまかり通るのだという。貧困者がいるならカネをばらまけばいい?不平等だから金持ちからカネをとれ?強欲な民間経営を止めて政府に任せろ?手っ取り早くシンプルな解決策があるのではないかと期待するけれど、そんなものはないと断言される。

 例えば、貧しい人がいたら価格操作で救ってあげようとしてしまうのは失敗しがちだ。電気が使えないなら電気料金を下げるのが良さそうだけど、結局それは過剰消費を促して環境負荷をかけるし、中流以上にも恩恵を与える。それなら所得補助手当を与えたほうがよっぽどマシだ。逆に価格を上げる価格操作にあたるフェアトレードは、価格を上げるだけでは生産量が増え、結局は価格を下げる圧力になる。供給量調整をしたほうがマシである。

 あるいは利潤を追求する民間企業への批判はどうだろう。例えば環境汚染を低減し、公益を推進するために国営化を進めたらどうか。これもそううまくいくわけではない。民間企業であれば法や罰金に従うインセンティブが大いにある。ところが国営企業はどうだろう。指示書を管理者に送っておしまいだろうか。

 じゃあ資本主義が万能かというとそうでもない。本書の半分は、いわゆる保守派の意見にもふんだんに謬見が含まれることを示す構成になっている。市場経済が私利だけで動かないようにするには政府が必要だし、人はインセンティブだけで行動選択はしないし、税は安ければいいってもんじゃない。とにかく経済は複雑であり、右派の意見にも左派の意見にも謬見が含まれるのではないかと立ち止まって考えるきっかけをくれる本である。

 とはいえ、確かに少し大きな視点で見れば資本主義でうまくいくことは多いのかもしれないけれど、ひとりひとりの個人のもとでは必ずしもそうではないんじゃないだろうか。税の引き換えに得るサービスをそれほど享受していない人はいるし、いくら国際競争なんてないと言ったって失業が工場の海外移転のせいである人はいる。そうした人に、どこまでこうした啓蒙は意味を持つだろう。

使いやすさのユートピアへ『「ユーザーフレンドリー」全史』

「ユーザーフレンドリー」全史 世界と人間を変えてきた「使いやすいモノ」の法則

クリフ・クアン / ロバート・ファブリカント『「ユーザーフレンドリー」全史 世界と人間を変えてきた「使いやすいモノ」の法則』

出版社:双葉社

翻訳者:尼丁千津子

原著:User Friendly: How the Hidden Rules of Design Are Changing the Way We Live, Work, and Play (2019)

 

 1979年に起きたスリーマイル島で起きた原子力発電所事故のきっかけはパイプの詰まりだったものの、対応を混乱させ大事故につなげた原因は、制御室の操作板のパネルのデザインにあったと言われる。一斉に発される警報、現場の状況ではなく手元操作に連動する警告ランプ、同じであっても多数の意味を持つランプの色、必要な情報を示す計器の欠如、関連性が考慮されないパネル配置など、使いやすいとは言い難いつくりであった。機械は正しく動いていたのだから、ここで起きたことは、操作を熟知していない作業員によるヒューマンエラーである、などと言い切ることができるだろうか?

design.google

 システムには2つの接面がある。ひとつめは操作者とシステムとの接面、ふたつめはシステムと外界の接面である。自動車で例えると、運転者が踏むブレーキペダルが第一の接面、踏み込んだという入力が実際にタイヤに伝わるのが第二の接面である。運転に慣れると、このふたつの接面が意識の上ではひとつになり、自動車が体の延長のように感じられるようになる。このように、ふたつの接面の距離をいかに縮められるか・縮めやすくするかで、使いやすさは変わる。インターフェイスデザインが扱うのはそうした領域である。

 スリーマイル島原発の場合、操作パネルがインターフェイスとなる。しかしそこには表示と状況の正しい「対応づけ」はなく、一貫したパターンがないため「操作のしやすさ」からはほど遠く、操作の結果を予想できる「メンタルモデル」を構築できるようなものでもなかった。何よりも問題だったのは、操作に対する正しい「フィードバック」がなかったことだ。操作をした結果、事実と違う表示が出たり、そもそも表示が出なかったりという状況では、前述のふたつの接面の距離が埋まることは期待できない。スリーマイル島の事故はユーザーフレンドリーの大いなる失敗例なのである。

 その上で手元のスマートフォンを見ると、いかにユーザーフレンドリーな製品であるかがわかる。もちろんイライラさせられることもあるものの、概ねうまく機能するフィードバックが満載で、マニュアルに目を通すことなく直感的に操作ができ、すでに知っている物を模したメタファを組み入れたアイコンや操作感など、「ユーザーフレンドリーな世界」を作るための工夫が詰め込まれているのがわかるだろう。20世紀初めのインダストリアルデザインの時代から、このスマートフォンまで、どのようにして「使いやすさ」を追い求めてきたかの歴史を本書で俯瞰することができる。

 ユーザーフレンドリーの考えはますます重要になっている。なぜなら、我々は機械に、それもなんだかよく仕組みのわからない機械に囲まれているためである。原理は知らなくても、付き合いを構築しなければならないもので溢れているのだ。本書で示される例のひとつは自動運転車だ。今現在の運転の主導権が人にあるのか車にあるのかを馬の手綱のメタファで表現する工夫や、「自動運転は周辺をちゃんと見て走ってますよ」と乗員に安心感を与えることの重要性が示される。また乗員だけでなく、歩行者も不安を抱かないような運転をいかにできるか、という点にもユーザーフレンドリーの視点が入るのが面白い。

 ユーザーフレンドリーな世界は本当に素晴らしい、と思われるのだが、行き着く先がバラ色というわけではない。機械による補助に頼ることが増え、例えば航空機パイロット自身の操作技術が低下する『オートメーション・バカ』の状況はすでに生まれている。また、ユーザー第一の考えから、いつの間にか自分のことが知られ、誕生日を祝われたり、おすすめ商品だけで囲まれていってしまうのは薄気味悪さもある。優れたフィードバック設計である「いいね!」ボタンを得るために行動が変容し、何度もスマートフォンを覗き込む。ユーザーフレンドリーがユーザーの欲求を満たすためのものだけになると、こうした落とし穴に陥ってしまう。インターフェイスだけでなく、もっと根本的な人間の行動をどうデザインするか、壮大な課題が横たわっているのである。

吾輩は虎である『トラが語る中国史』

トラが語る中国史―エコロジカル・ヒストリーの可能性 (historia)

上田信『トラが語る中国史 エコロジカル・ヒストリーの可能性』

山川出版社(2002年)

 

 来年2022年の干支であるトラは、アジア大陸に分布するネコ科最大の動物で、絶滅したものも含め9亜種が知られる。そのうちの一亜種であるアモイトラは中国華南地方に生息していたものの、野生では絶滅したものと見られている。本書は、中国のとある村で駆除されたアモイトラの霊が、たまたまその場を訪れた歴史学者に取り憑き、トラの目から見た中国史を語るというトリッキーな構成の歴史書である。ヒトにとっての開発の歴史は、トラにとっては環境破壊の歴史となる。

 副題の「エコロジカル・ヒストリー」とは、動植物とヒトとの関係の歴史のことだという。本書では、気候・植生の変化、人口・分布の変化、トラの畏れ方の変化がどのように絡み合ってきたかを、大きなタイムスケールで描き出している。

 中国東南部には元々、山間地帯に転々と人々が住んでおり、北方の中国王朝からは一括りに「越」と呼ばれるまとまりだった。彼らは高地を好み、トラと遭遇することも少なかったと見られる。しかし徐々に流入する北方の漢族は低地を好み、耕作のため樹林を伐採し、また物産を求め森に入り込んだため、トラとの接触は増加していったようだ。

 東南部に本格的に人口の比重が移り始めたのは4〜5世紀ごろからである。これには気候の変化が影響している。寒冷化により、モンゴル高原にいた北方の人々が南下し、玉突き的に華北の漢族が南に進まざるをえなくなった。寒冷化のおかげで江南の低地ではマラリアを媒介する蚊もいなくなっており、漢族が移りこむ障壁は減っていた。彼らは労働力を動員し、交通網を整備し、灌漑治水を行った。また、荘園を多数おき耕地化を進めた。13世紀には中国の人口の60%もが南部に住むようになり、さらに戦に向けての造船や、紙・漆原料を得るために森に入り込むことも増えた。その結果トラとヒトとの接点は増える一方だった。

 最初こそヒトは、トラを「天が下した運命の実行者」として畏れた。ヒトに天罰を下す存在と捉えたのである。徳が足りないとトラが現れる、という考えは地方自治にも当てはめられ、正しい政治をすればトラは駆逐されると考えられた。人事を尽くしてもトラが現れるなら、「駆虎文」を出してトラを駆逐するよう祈願した。

 しかし、人口の増加、森林開発の激化に伴い、トラとヒトとの衝突は避けられないものとなった。1950〜1960年代には、ついにトラは害獣指定され、大虐殺の対象となった。生息環境も減ったアモイトラは、数を減らしていくのみだった。

 今年はヒグマの市街地への出現が特に取り沙汰された。ヒグマに語らせれば、そこにはどのような歴史があるだろう。野生動物との関わり・共存を歴史から学ぶことができるはずだ。