羽根はどこへ消えた?『大英自然史博物館珍鳥標本盗難事件』

大英自然史博物館 珍鳥標本盗難事件―なぜ美しい羽は狙われたのか

カーク・ウォレス・ジョンソン『大英自然史博物館珍鳥標本盗難事件 なぜ美しい羽は狙われたのか』

出版社:化学同人

翻訳者:矢野真千子

原著:The Feather Thief: Beauty, Obsession, and the Natural History Heist of the Century (2018)

 

 サーモン釣りのための美しい毛針の世界がある。下のリンクにあるような複雑できらびやかな毛針の姿はヴィクトリア時代には確立しており、レシピとして現代まで残されている。

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 しかし当時のレシピ通りに毛針を作ることは困難になっている。材料となる羽根の持ち主である鳥が絶滅したり、国際取引不可となったりしているためだ。それでも当時のレシピを再現したい一部の毛針マニアたちは、かつて流行した羽飾りのついた帽子が古道具屋などで発見されないか血眼になっている。彼らにとってはレシピと全く同じに作ることが重要であり、似たような代替品を原料にするのは言語道断である。

 2009年のある夜、20歳の音楽大生エドウィン・リストが博物館に忍び込み、300羽近くの鳥の標本を盗み出した理由もここにある。歴史的な毛針を自身の手で再現できるため、そして貴重な羽根自体が毛針コミュニティ内で非常に高額で取引されるためだ。本書は、この奇妙な犯罪がなぜ・どのように行われたのかを、奇妙な毛針コミュニティの世界を覗きながら追いかける、非常に面白いルポタージュである。

 トラウトを釣るためには、限りなく現実に近い疑似餌を、時期や時間帯、周囲の環境に合わせて使い分ける必要がある。一方で、敵に攻撃する行動を利用して釣るサーモンの場合、サーモンを刺激する疑似餌ならなんでもいい。したがって実用面を考えれば、冒頭のような美しさは毛針に必要はない。その美しさは、芸術のためだけのものと言って良いだろう。

 その芸術のために博物館の標本を盗み出す罪とは、どれほどのものだろう。よくある窃盗の一つとして済ましていいのだろうか。「同じ種類の鳥の標本を何十も持っているなら、少しくらい使ってもいいいのではないか。すでに死んだ鳥の羽根を流通させた方が、生きている鳥が新たに殺されるのを防ぐかもしれない」とエドウィン・リストは語る。

 だが、本書を読めば、その標本ひとつひとつに込められた先人の思いが理解できるはずだ。標本を集めるためにアルフレッド・ラッセル・ウォレスらが経験した試練、将来新たな知見がその標本から引き出されることを信じて戦火からも守り続けた博物館、それらの全てを無に帰したのがこの窃盗であった。世界中を飛び回って盗まれた羽根の行方を追い、犯人やその共犯者と目される人物にコンタクトを取ろうとする著者の原動力は、なんとかこの先人の無念を少しでも晴らしたいということにもあったのかもしれない。