ガラスの檻に囲まれて『オートメーション・バカ』

オートメーション・バカ -先端技術がわたしたちにしていること-

『オートメーション・バカ 先端技術がわたしたちにしていること』

出版社:青土社

著者:ニコラス・G・カー

訳者:篠儀直子

原著:THE GLASS CASE: Automation and Us (2014)

 

 我々の周りにはありとあらゆるオートメーションが溢れている。こうしてキーを叩いているラップトップ、ポケットに入っているスマートフォンはその典型的な例だ。それらは僕が打ち間違えた言葉を無言で直し、行きたい場所までの道順を一瞬で提供し、検索したいことを予測してくれる。自動運転技術の端くれはすでに実車に搭載され、様々な人工知能の話題には事欠かない。夢見た未来に突き進んでいるようにも感じられる。

 オートメーションは我々を豊かにするだろうか。機械化・自動化は確かに多くの恩恵を我々にもたらしてはいる。単純できつい労働をすることはなくなり、もっと充足感のあることに時間を割けるようになる、というのは明るい側面であるようだ。しかし、本書では、実はヒトは労働をしているときにこそ高い充足感を得ているという研究も紹介する。課題にチャレンジしている状態こそが充足を生み出すのであり、もし放任されたらこんな感覚を得られるものだろうか。どこまで自動化するのが「ちょうどいい」のか我々は知らない。

 機械が仕事を奪う、というのはオートメーションの負の側面の一つかもしれない。すでに多くの生産活動のペースは機械が決定しており、ヒトはその補助のために存在しているような部分もある。これまでの機械化は確かにヒトの失業を生んだとされ、この部分でのオートメーションへの反発は労働者レベルでも起きた。

 オートメーションは労働だけを奪ったのではない。本書では大型旅客機におけるオートパイロットの例を多く挙げる。旅客機の多くで、すでに操縦士がすることはほとんどない。自動化された操縦が異常なく行われているかをチェックし、非常時の「究極のバックアップ」としての役割を期待されているのだ。例えば映画『ハドソン川の奇跡』はその機能が正しく発揮された一例だ。しかし、ヒトがバックアップとしての機能を果たせなくなってきていることも示される。非常時にオートパイロットが解除された時に、操縦士が誤った判断・操縦をしたために大きな事故につながることも起きているのだ。原因には、自動化により操縦士自身の操作によるフライト経験が大幅に少なくなっていることがある。さらに、現在の操縦席は窓ではなくモニタに囲まれ、操縦桿は抵抗なく動くため飛行機の状況を体感することができない。むちゃくちゃ軽いステアリングの車に乗った時に、運転している実感が薄れるようなものだ。オートメーションに囲まれた操縦席は確かに便利かもしれないが、確実にスキルの低下を招き、飛んでいる・動かしているという知覚を追い出してしまっている。オートメーションは我々を解放するのではなく、目に見えない「ガラスの檻」に閉じ込めてしまっているのではないか、と著者は指摘する。

 オートメーションに慣れた我々は、それらが提示する結果に疑いを持たず、信じ込みやすいという傾向も見られている。この過信とバイアスは、結果的に人間の視野を狭めうる。我々を行為者から観察者にし、訓練を積むことでのスキル形成を妨げるという。このような例は本書ではいくつも紹介される。電子医療記録の運用が医師と患者の距離を開け、診断までコンピュータの提案が左右する。イヌイットのハンターがGPSを使うことで、かつて持っていた優れた位置把握能力を失う。CADを使った設計は、構造計算を迅速化し、今まで実現できないとされた形状の建物を実現したが、そこに芸術性が残されているかは議論の的だ。今やユーザーは、表面上は非常に使いやすく単純だが、その仕組みの理解はほとんどできていないテクノロジーに囲まれている。これを見えない檻と言わず何と言おう。

 著者は必ずしもテクノロジーに否定的なのではない。ヒトは道具を自分の身体の一部のように感じられる存在でもあるし、ツールを使った動作が、それでなければ得ることのできない心身の充足感も生む場合があるとも示す。人間は技術と共に進歩してきた存在であり、その進歩の都度失われた能力は確実にあるはずで、いまさら何を、という視点も私の中にはある。しかし、人間らしさ、あるいは自分自身が失いたくない感覚とは何か、そのために私個人はテクノロジーとどのような距離感を保つべきか、そんなことをじっくりと考えさせてくれる本だ。