学習伝記まんが的すばらしさ『天地明察』

天地明察(上) (角川文庫) 天地明察(下) (角川文庫)

冲方丁天地明察』(2009)

 

 

 正確な暦である必要性とはなんだろう。本書の舞台である江戸時代において、暦が示す節気(夏至冬至など)や月の満ち欠けは農作業や占術の基として生活にも政治にも大きな影響を及ぼす。江戸時代初期までは、平安時代に唐より伝えられた宣明暦という暦法を使が使われていた。しかし800年にわたり使われてきた宣明暦にズレが生じてきてしまう。と言ってもそのズレも2日ほどなので、唐時代の予測も素晴らしいものである。

 本書の主人公は、宣明暦に代わる新しい暦の開発に携わり、のちに幕府の初代天文方に就く囲碁棋士渋川春海である。一人の研究者が理論を確立するまでの過程を追ったルポタージュとして興味深く読んだ。算額を通じた江戸時代のアマチュア研究者コミュニティの活発さと純粋さは非常に羨ましくも感じ、若い春海が年長研究者とのフィールドワークを行い自然現象の観測を通じて精神を研ぎ澄ませていく様は、私自身が科学への興味を持った根源的な思い出を刺激する。

 改暦を命じられた春海は、はじめに明で使用されていた授時暦の適用を考えた。春海は宣明暦と授時暦とでの3年に及ぶ蝕の予測合戦を仕掛けるが、授時暦でも全てを的中させることはできず、大きな敗北を味わう。しかし春海は諦めず、日本において授時暦を適用する場合の理論上の課題を解決し、ついには日本独自の暦法・貞享暦を作成し改暦にこぎつける。地道な天体観測でのデータ収集の上にようやく理論が立ち上がってきたという過程が実に良い。

 本書は時代小説なのだけど、あっさりとノンフィクションを読んだような感覚もある。春海が様々な人の遺志を背負って進む様や、妻のえんとのやり取りも心を揺さぶるのだが、本書を通じて春海が行った研究活動こそが浮かび上がってくるように感じる。そういう意味では学習伝記まんがのようであり、数学や天文学をテーマとするにはそのさじ加減が小気味よく感じられる。

 科学的検証で作られた貞享暦は以後70年間使用されたが、その次に天文方ではなく朝廷主導で導入された宝暦暦の正確度が貞享暦より劣ったというのはなんとも皮肉である。政治と密接に関わる暦の歴史、また観測機器の変遷とその使用方法についても興味がわく。まずは科博の特別展に行くべきか…。