自由のために『ふだんづかいの倫理学』
平尾昌宏『ふだんづかいの倫理学』
晶文社(2019年)
本書の冒頭は、いくつかの例題から始まる。ちょっと紹介してみよう。
1)あなたは都道府県知事。賄賂を渡すから発注してほしいと工事業者。どうする?
2)結婚をしようとした相手が重い病気に。どうする?
ふたつはどちらも倫理の問題だ。前者に関しては「受け取るべきでない」で意見が一致するかと思う。でもなぜそんな判断になるのか。「法律で決まっているから」でもいいけど、どうして法律として定めなくてはならなかったのだろう。
後者については意見が分かれるだろう。「みんな違う、正解なんてない」となる。どうしてこちらの問題には、従うべき方針をだれも定めてはくれなかったのだろう。
私たちの周りには、倫理が空気のように存在している。存在感は薄いかもしれないけれど、それがないと生きにくい。人間が他者との関係の中で「よく生きる」ために倫理がある。そして、ときには乱立し対立することもある倫理を整理し、基本原理を明らかにし、人間の選択をよりよいものにしようというのが倫理学というわけだ。
さて、他者との関係というのは「身近さ」の強度によって分けることができるという。究極的に身近なのは自分自身、すなわち「個人」である。身近さの強度でいえば0である。その対極となるのは「社会」だろう。不特定多数の人間の集まりはまったく身近さがない。
個人を支える倫理は「自由」だ。他人に干渉されない権利を「自由」だと考えることもできる。でももっといえば、各個人でしか判断をできない幸福というものを、各個人が見出して、各個人が追求する、それこそが「自由」だと考えることができるという。
しかしほんとうに好き勝手に自由を追求しては、他人の自由を侵害するかもしれない。ひとたびそれを許せば、自分自身の自由だって脅かされる。そのために社会は「正義」のもとで運営される。平等や公平を目指し、調整や交換、分配によって天秤の傾きをなくそうというのだ。冒頭の例題のひとつめは、この「正義」の倫理のもとにある。社会を運営するための倫理なわけだから、みんなが共通認識をもって当然なのだ。
他者との関係が「個人」と「社会」の二極しかないかというと、もちろんそんなことはない。家族とか友人とか恋人とか同僚とか、身近さのグラデーションの中に色々な関係が見えてくる。「かけがえのない身近な関係」である。
こうした身近な関係で働く倫理を、本書では思い切って「愛」としている。あなたにここにいてほしい、そのための倫理というわけだ。「愛」にもいろいろあって、共通なものがあるために結びつくもの、欠けているものを補うために結びつくものがあるだろう。互いがなにを大事にしているかによって違うのだ。したがって、冒頭の例題のふたつめは、ふたりで協議し、ふたりだけの結論を出すしかないのである。
倫理とか道徳というのは、ああしなさい・こうしなさいと押し付けられるもののようなイメージもある。思えば道徳の授業というのはルールを意識させるようなところもあった。そうした義務感を伴うような倫理を、ここでは「守りの倫理」と呼んでいる。
本書を読めば、もう一歩先に踏み出して「攻めの倫理」を意識するようになる。なくてもいいかもしれないけど、あると「善い」倫理。気遣いや親切なんかはその例だ。より「善く生きる」ために自分の裁量をもってコントロールする倫理とも受け取れ、攻めの倫理は自由のもとでの実践であり、同時に自由を獲得していくための行いとも考えられる。
そうした攻めの倫理が自分を縛ることも出てくるだろう。「親切はしなければならないものだ」「自分がする気遣いをなぜ他人はしないのだろう」と、本来は自由であるはずのものが義務のように感じられ、生きづらさにつながるかもしれない。著者はバランスを取ることが重要だという。自分の行いがどういった原理に従う倫理に分類できるかを把握できれば、自分や他人を縛り付けるようなものなのかがわかり、バランスをとって生きることにつながる。生き方を自由にする学問。それがふだんづかいの倫理学である。