境界を揺れる『プラネタリウムの外側』

プラネタリウムの外側 (ハヤカワ文庫JA)

早瀬耕『プラネタリウムの外側』

ハヤカワ文庫JA(2018年)

 

 BBCのドラマ『シャーロック』第3シーズンのラスボスである恐喝王・マグヌセンは、様々なネタをもって要人をも強請る。彼の邸宅に膨大な資料が隠されていると目されたが、実際には物的証拠は何一つなく、全ての論拠は彼の記憶の中に存在するのみだった。彼がちらつかせる手紙などの記録は、フェイクの紙切れなのである。

 「そんな恐喝が成立するのかよ」と最初は思った。自分しか知らないはず、自分しか持っていないはずの記憶を、もし他人がピタリと言い当てれば確かに驚くし、恐怖もする。でも真実かどうかを判断できるのは自分と相手しかいない。世間が事実とみなさない限り、問題はないかもしれない。

 ところがマグヌセンは新聞社を牛耳っており、記録なんかなくてもメディアで世間を操作できうる。あれ、十分な恐喝ではないか…?

 自分の記憶と世間の記録が食い違う場合はどうだろう。周囲は記録をもとに事実を組み立てている。その時、寄る辺のない記憶を自分自身はどう扱うことになるだろうか。記録を記憶として扱うだろうか。事実と虚構とにどう折り合いをつけるだろう。

 

 『プラネタリウムの外側』は、こっそりとチャットプログラムを運用する大学研究室を舞台とした5つの連作短編からなる。

 表題作では、亡くなった元恋人の思考をチャットプログラム内に再現し、死のその瞬間に、彼が何を思っていたかを知ろうとする女性の姿が描かれる。その時の考えを正確に知ろうと試行を繰り返すうちに、プログラムの中での状況経過に、現実での彼女自身の行動を合わせて行ってしまう。途中から、現実と仮想の世界が融合しかけていく。

 収められた短編で描かれるのは、境界についての物語である。記憶と記録、事実と虚構、過去と未来、在と不在、生と死。これらの境界はとても曖昧で、互いに侵食しあう。読んでいるうちにいくつもの違和感を感じ、自分自身が果たしてどこに立っているのか、足元が揺らぐような不安も覚える。一気に読ませる魅力のある作品。