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理論と観測と評価『宇宙創生』

宇宙創成〈上〉 (新潮文庫) 宇宙創成〈下〉 (新潮文庫)

 

『宇宙創生(上・下)』

出版社:新潮文庫

著者:サイモン・シン

訳者:青木薫

原著:BIG BANG (2004)

 訳者があとがきで述べているように、本書は「科学的方法」について述べたものであると感じた。神が作り上げたとされていた神秘的な宇宙を、ビック・バンから始まった物理的な宇宙にするまでの科学的な営みが本書の主題である。理論を組み立て、それを観測で検証し、さらに理論を組み直すという繰り返しは、幾度となく当時の常識を覆すパラダイムシフトを引き起こしてきた。この科学的方法により人がビック・バン理論という到達点に至るまでの数々のドラマが描かれている。

 また、本書はビック・バンの考えを理解する上でも優れている。「理論の主要な概念を水で薄めるように噛み砕かなくとも、素人にもわかる言葉で説明することができる」と冒頭で著者は挑戦的に述べる。果たしてその試みは成功し、数式は全く出てこないものの、読者は理論の骨子を理解し、このモデルのシンプルさと美しさを知ることができるだろう。

 

 天文学における最初のパラダイムシフトは、天動説から地動説への移行だろう。紀元前6世紀からの天文学の地球中心モデルに対し、16世紀になってようやくコペルニクスが太陽中心モデルを提唱したが、これが受け入れられることはなかった。聖書の教えに反するからというだけでなく、コペルニクスの理論による星の運行の予想精度は、複雑にこねくり回された地球中心モデルよりも低かっからというのが面白い。現実に即していないモデルの方が現象をよりよく表したのである。一度は敗れた太陽中心モデルを救い出したのは、ティコによる観測データであった。精度の高い多くの観測データをもとに、ケプラーは太陽中心モデルを改良する。地球中心モデルよりシンプルながら、星の運行をよりよく表すことができるようになった太陽中心モデルは徐々に主流の考えとなる。と同時に、それまでの宗教的・科学的常識が覆されるパラダイムシフトが起きるのであった。

 このような観測と理論、客観的指標によるその評価といった科学的手法により、人々の宇宙観はどんどん変化していく。宗教的常識から離れ、宇宙が神話的な世界で始まったのではないとすれば、この宇宙はいつ・どのように始まったのだろうか、あるいは永遠の過去から存在しているのだろうか。

 あらゆる天体の運動と相互作用を導いているのは重力である。太陽の重力により光がどれほど曲がるのかという観測によって、ニュートンの重力理論はアインシュタイン一般相対性理論に取って代わられた。重力についてのパラダイムシフトを経て、我々はより確からしい重力理論を手に入れたのだが、この一般相対性理論は新たな問題を引き起こした。宇宙規模でこの一般相対性理論を当てはめると、宇宙は膨張あるいは収縮している可能性があると示されたのだ。宇宙は安定的であるというのが当時の常識であり、この常識に従って一般相対性理論が安定した宇宙を示すようにアインシュタインは宇宙定数という数字をひねり出し無理矢理付け加えたほどであった。

 宇宙は静的か動的か、この議論も観測により決着がつけられる。それは星の光を観測することで、他の銀河への距離やその星の成分を知ろうという試みからもたらされた。星の光の波長を調べると、ドップラー効果によって光の波長にずれが生じていることがわかったのだ。このことは、ほとんどの銀河が我々の住む天の川銀河から遠ざかっていることを示していた。さらに1929年、ハッブルは遠くにある銀河ほど遠ざかる速度が速いことを観測した。これは宇宙は膨張する動的なものであることを示すだけでなく、時間を巻き戻せば宇宙の始まりはただ一点であったことを示唆するという驚くべき観測結果だった。

 この観測結果からアインシュタインは自身の考えを改め動的な世界を受け入れたが、これだけではパラダイムシフトとはならなかった。ビッグ・バン理論はハッブルの観測結果をよく説明したが、当時の観測結果ではビック・バンでの宇宙の始まりはたった18億年前に起こったことになってしまったからである。地球の地質年代よりも宇宙は若いことになってしまう。こうして地動説と天動説のように、ビッグ・バン宇宙と定常宇宙の戦いが始まったのである。

 その検証の舞台となったのは、以外にもミクロな原子の世界だった。宇宙の原子の構成は大きく偏っており、90%は水素、9%はヘリウムと軽い原子がほとんどなのだ。ガモフらは、ビック・バン直後の高温環境が、初期宇宙で高密度に漂う陽子・中性子・電子を結びつけたという理論でこの原子の偏りを説明した。しかし一方で、この理論ではヘリウムより重い原子を作ることができないという問題もあった。

 重い原子の生成過程を明らかにしたのは、なんとビック・バン否定派のホイルであった。彼は、死にゆく星の内部環境であれば様々な重い原子が生成されることを示したのである。これはホイル自身が支持する定常宇宙論の考えを前進させるものであったが、同時に敵対するビッグ・バン理論が抱える理論の溝を埋めることにもなった。さらに言えば、原子生成の課題が解決してしまえば、宇宙の原子組成をよりよく説明するビッグ・バン理論の方が優位に立つのである。皮肉なことに、ビック・バンの名付け親もこのホイルであった。

 理論的な優位性を持ったビッグ・バン理論を支える観測結果も徐々に得られ始めた。宇宙の年齢の見直しは早い段階で行われ、過去の観測の見直しにより他の銀河までの距離はさらに離れ、宇宙は百億歳以上と十分な古さを持つことがわかった。また、原始宇宙が放った光のこだまとも言える宇宙マイクロ波背景放射の観測も偶然によりなされた。さらに、ビッグ・バン宇宙が示す偏りのある宇宙を生成するきっかけとなった初期宇宙の密度のゆらぎの観測にも成功する。これらの観測での実証を踏まえ、ついにビッグ・バン宇宙へのパラダイムシフトを果たしたのである。ところでビッグ・バン宇宙論は不動の地位を築いたのだろうか。これからの理論・観測・評価という科学的方法は、さらなるパラダイムシフトを引き起こしてもおかしくない。

 

 このように、本書を通じてビック・バン宇宙論の発展の過程とその考えを理解出来る良書である。そんな本書を読み進める推進剤は、理論を組み立てる科学者の葛藤や、観測の苦労話といった人間の苦労話である。科学的営みは、他の誰でもなく人間によって行われるのだ。まったくの偶然により見つかった宇宙マイクロ波背景放射だが、その観測の過程でノイズの元を取り除くために繰り広げられたハトとの攻防はお気に入りのエピソードのひとつだ。何よりも宇宙や物理への興味をかき立てられた点で、非常に楽しい体験であった。