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いかに自然と渡り合ってきたか『食糧と人類』

食糧と人類 ―飢餓を克服した大増産の文明史

 

『食糧と人類 飢餓を克服した大増産の文明史』

出版社:日本経済新聞出版社

著者:ルース・ドフリース

訳者:小川敏子

原著:The Big Ratchet: How Humanity Thrives in the Face of Natural Crisis (2014)

  人間の食糧生産は、(分配の問題こそあれ)70億人もの人口を支えるほどにまでになった。ヒトは自然環境から突きつけられる課題に創意工夫で対処することで、狩猟時代からは考えられない食糧システムを獲得した。本書は、食糧を得る過程でヒトが自然環境とどう向き合い対処したか、またそれがどのように新しい課題を生み出してきたのかを紹介している。決して自然破壊や環境汚染を告発するのが目的のものではなく、果てなく続くヒトと自然との渡り合いをフラットに記した良書である。

 

 定住生活を営んでいく上での大きな課題は、作物の成長に必須となる窒素とリンの土壌への補給である。どちらの元素も非常にゆっくりと地球を循環するため、同じ場所で農耕を続ければすぐにその土壌から栄養は失われてしまうのだ。河川沿岸の古代都市では、洪水で上流の栄養素の流入することが土壌への栄養補給となっていた。しかしダムなどの治水が進むと、このような効果を得ることはできなくなった。

 土壌への栄養素供給の課題を巧みに解決したのは古代中国だ。一つはマメ科植物の根粒菌が窒素固定をすることを活かした輪作、もう一つはヒト・家畜の糞尿の肥料としての再利用だ。特に後者については、作物ごとに廃棄物の構成を変えて撒くなど、中国の高度な農業システムを支えた。

 しかしこのような糞尿のリサイクルシステムも新たな課題を生んだ。ロンドンでは都市の人口が増えすぎたために糞尿の汲み取りが追いつかず、水洗で流された汚物は排水溝などに溢れかえった。悪臭を放つだけでなくコレラの発生源にもなったこの汚物への対処のため、下水設備が整えられた。ところがこれにより、ヒトから農地へと栄養素を戻す循環が断ち切られてしまった。

 すでにヒトは窒素・リンを獲得する新たな解決法を手に入れていた。南アメリカの「グアノ」、海鳥の糞である。1840年には盛んに取引がなされ、利権争いも熾烈を極めた結果、グアノは数十年で底をつき始めてしまう。グアノに次いで着目されたのは火薬の原料にもなる硝石で、これもまた南米各地からわざわざヨーロッパへと輸出された。盛んになる交易は、限られた資源をめぐる競争や、世界各地での食料栽培種の変化を促した。

 画期的な変革は20世紀前半に起きた。窒素を空気中から固定する方法が発見されたのである。この「ハーバー・ボッシュ法」は工業国に広がり、窒素肥料が盛んに作られることになった。一方のリンは、リン鉱石から取得できることがわかった。工業国では食糧の生産量が飛躍的に増加、穀類をそのまま食べるだけでなく、それを餌とした肉、卵、乳製品の摂取量も増加していった。さらに石油の発見は、農業の機械化・効率化を促し、食糧生産量の増加に拍車をかけた。もちろんいいことばかりではなく、土中で過剰になった栄養素が流れ出すことで湖沼や海の富栄養化が起こり、石油の燃焼は温室効果ガスを増やしている。

 増え続ける人口は、アメリカで特に見られるように、単一種を生産するモノカルチャーへと農業の形態を変化させた。より多くの収穫を得られる品種改良された作物の大規模栽培が、膨れ上がった都市生活者への十分な食料供給を可能にしたのである。しかしモノカルチャーも新たな弊害と戦う必要があった。害虫と病気である。単一の作物は、同じ病原菌・害虫の影響を受け、全滅の危機にも直面しやすい。

 害虫に対しては合成殺虫剤の使用が広まった。かの有名なDDTである。DDTは一定の効果を挙げたが、2つの不具合が生じた。一つは殺虫効果の薄れだ。DDTに耐性のある虫の自然選択が起き、効果が薄らいでいくのである。これに対しさらに大量に使えばさらなる選択圧となり…と永遠にいたちごっことなる。そしてもう一つは、環境汚染と健康被害である。これらにより、農業における合成殺虫剤のブームは終息していく。

 ここまでの話は、いわば先進国に限った話だ。アフリカなどでは人力での農業が主流であり、高額な化学肥料は購入できず、土地は痩せる一方だ。DDTは先進国では忌むべきものだが、マラリア蚊の防除対策には大きな効果を挙げている。「緑の革命」のように、これら途上国にも先進国のような農業を広げようとするが、国内での新たな格差の発生や、自然環境の破壊の促進となってしまい容易ではない。

 今我々が直面する次なる変革は何か。著者は農耕生活から都市生活への移行こそそれであるという。長い時間をかけて、人は高脂肪・高カロリーな食事を摂るようになった。この食事は健康面での新たな問題を引き起こしている。そして、現在の食糧生産は、気候変動の促進、地球の窒素・リン循環の分断、生物多様性の低下を促進している。けれどもこれらの課題に対しても、これまでのように、ヒトはまた新たな回避方法を見つけるに違いないと筆者は断言している。