もうハトから目を離せない『ハトはなぜ首を振って歩くのか』
藤田祐樹『ハトはなぜ首を振って歩くのか』
岩波書店(2015年)
ハトはなぜ首を振って歩くのか。テレビやネットの豆知識としてメジャーになった感もあり、理由を知っている人も多くいるだろう。でも鳥見をしていれば、カモなんかは首を振らずに歩いていることに気づく。なぜ首を振って歩く鳥と、そうでない鳥がいるのだろう。不思議じゃない?
著者は人類学を専攻し、ヒトの歩行を研究するつもりだったのにうっかりハトの歩行の研究をしてしまったという。その結果として、こうしてハトの歩行だけにフォーカスした本が出たのだから、ちょっとクレイジーと言わざるをえない。
ハトの歩行は上の動画の通りである。まず首を前に伸ばし、脚を出す。こんどは頭の位置が静止するように首を縮めながら、体だけ前方に持っていく。なぜこんな動きをするのだろう。
この謎を解明しようという実験は、1975年にイギリスのフリードマンによって行われた。これがまたとんでもなく鮮やかな実験で、箱とキャスターを用意し、歩かないけど景色が変わる、歩いて位置が変わってもも景色が変わらない、歩いても位置も景色も変わらないなどの状況を作り、首振りが発生する条件を探ったのである。結果として、「周囲の景色が動く」と首振りが発生した。
ヒトと異なり、ハトの視野は横に広く広がっている。このため、前方に動くとどんどん景色が流れていくような感覚になるだろう。我々が電車の窓から景色を見る時、近くのものがどんどん流れさるように見えるのと同じだ。そうして流れさるものをよく見ようとするなら目で追うしかない。鳥の目はその扁平な構造上、眼球を動かし目で追うことに適していない。周囲をしっかり見ようとしたら、首からの動作によって目でものを追うしかないのである。
ところがカモやカモメは首を振って歩かない(上の動画は全て確認できる大変お得なものである)。筆者は採餌行動の違いが首振りの有無に関わるのではないかと考えた。ハトは歩きながら餌を探すので、移動中も比較的近い場所を注視する必要がある。一方でカモは主に水中で餌を探し、カモメは飛行しながら餌を探す。彼らは歩きながら餌を探すことはあまりないため、歩行中は比較的遠くを眺めていればいいのである。実際にユリカモメを観察すると、足元の餌をついばみながら歩くときには首を振るのであった。
首振りには、視覚のブレを防ぐ目的に加え、歩行中のバランスをとる目的もあると推察し、さらには採餌行動の違いから首振りの有無があると結論づけた著者。一件落着かと思われたそのとき、子ども科学電話相談で一世を風靡したバード川上が、コアホウドリの動画を持ってくる。そこに写っていたのは、上下左右とV字型に首を振り歩くヤンキーさながらの姿。いったいなぜこんな歩き方なのか。鳥の首振りの不思議は尽きることがないのである。
カレーライス、だあいすき『カレーライスと日本人』
森枝卓士『カレーライスと日本人』
講談社学術文庫(2015年)
私の住む札幌でカレーといえば、やはりスープカレーである。スパイスの効いたさらりとしたスープに盛りだくさんの具を浮かべ、ライスを浸して食べる。元々は薬膳をヒントに札幌で生み出されているものの、東南アジアテイストの装飾をしたり、ラッシーも一緒に出したりして、なぜか異国感が演出されたりする。そうかと思えば天ぷらをトッピングしたりして、なんとも自由な料理である。
このスープカレー、日本で主流のルーカレーと全く違うのに、カレーとしかいえない感じがするのはよくよく思えば不思議である。スパイスが効いていて辛いからだろうか。ところが本書の冒頭にあるように、マレー式カレーは辛くない。色だって赤や緑など様々だ。何をもってカレーといえるのかを疑問に思った著者は、インド・イギリス・日本のカレーを巡ることになるのであった。
カレーの発祥はインドであるものの、カレーという呼称はもともとインドにはなく、現地の言語をもとに欧州国が呼び始めたもののようだ。インドにおけるカレーとは、唐辛子やコリアンダー、ターメリックなど複数のスパイスをすりつぶし調合したマサーラを使った汁気のある食べ物ではないか、ということまでを著者は突き止める。
ところがインドのカレーには日本のカレーのような特徴は見られない。小麦粉でとろみはつけられていないし、ジャガイモ・ニンジン・タマネギといった具もない。そもそも日本の辞書におけるカレーの定義の多くは「カレー粉を使ったもの」で、カレー粉はイギリスのC&B社が世界で初めて製造販売したのである。
したがって、日本におけるカレーはイギリスから伝来したのである。イギリスに行って1861年のレシピ本を調べると、小麦粉を加えてとろみをつけるという記載がある。明治のはじめに、この作り方と共に日本にカレー粉が伝わったのだ。こうして日本では西洋料理として扱われたがために、同じく西洋料理であるシチューと徐々に融合しながら、西洋野菜であったジャガイモ・ニンジン・タマネギを入れる料理として独自の発展を遂げたのである。
カレーは他の西洋料理と異なり、スパイスで肉の匂いを隠し、また価格も安かったため、西洋化し肉食を始めたばかりの日本では受け入れられやすかった。さらに軍隊での食事として供されたことから、大正から明治にかけ、軍隊がえりの人々が家庭でも食べるようになった。これにより、都市部だけでなく地方でも家庭料理としての浸透が広がったとみられる。こうしてカレーは日本人の国民食としての地位を確立したのだった。
読了後、さっそくカレーが食べたくなる。スープカレーじゃなくてルーカレーだ。札幌の名店「コロンボ」にいそいそと向かったところ、店外に続く長い行列。現在まで連綿と続くカレー人気を改めて思い知らされた。
今月きいたもの(2018年10月)
Novo Amor『Birthplace』(2018年)
ウェールズのシンガー。今時珍しく、カーラジオで耳にして知ったアーティスト。ボン・イヴェールとかアウスゲイルとか、そのままなんだけど、こういうのに本当に弱い。ユーフォリアがテイクマイハンドしてくれる。
Novo Amor, Ed Tullet『Heiress』(2017年)
そんなわけで過去作も。こちらは冷たい荒野が広がるような壮大さをたたえており、これも良い。冷え冷えとしていて、夜に聴くのにぴったり。それにしても「跡取り娘」というアルバムタイトルはなんでしょう。
Parcels『Parcels』(2018年)
オーストラリアの5人組。かつてダフト・パンクのプロデュースを受けたシングルで話題になったとか(本作には未収録)。確かにRAM的なディスコ、AOR中心で、カッティングギターにもにっこりできる爽やかな1枚。
DJみそしるとMCごはん『ジャスタジスイ』(2015年)
とんでもない量の餃子をたたみながら、ひたすらきいていました。ポップで可愛らしくてちょっとふざけているところが良いですね。
今月みたもの(2018年10月)
ポール・グリーングラス『ユナイテッド93』(United 93)2006年
2001年のアメリカ同時多発テロにてハイジャックされた4機のうち、唯一ターゲットに到達しなかったユナイテッド航空93便の様子を描いた映画。綿密な調査に基づいたリアリティ、無名俳優や当事者本人を出演させたことで生まれた記録としての質感。終盤にかけての緊張感と、ドラマ性のない結末まで、本当に徹底されたドキュメンタリー性を感じる。テロリストが見せる焦り、飛行機の乗客が発揮した残虐性を目の当たりにすると、美談として終わらせない姿勢を強く感じる。『ダンケルク』みたいな体験映画。
ロバート・レッドフォード『リバー・ランズ・スルー・イット』(A River Runs Through It)1992年
モンタナ州を流れるブラックフット川を中心としたある家族の肖像。淡々としるけどとてもいい映画だった。家族の絆の象徴としてフライフィッシングが登場するのだが、川と対峙するこの瞬間は、何にもまして美しく豊かである。
タイトルの「イット」とは何か考えながら観ていたが、一言で表すのは難しい。川は、そこに転がる石ができた5億年前からの歴史も、家族の感情も、言葉も、何もかもをたたえてそこに流れ続けるのだろう。